ぷらすです。
ざっくりと映画史の流れを知ることで、古い映画を楽しむポイントが分かるのではないかとスタートしたこの企画。
前回は、映画が誕生しサイレント映画が隆盛を極めた1890~1920年代をご紹介しましたが、今回は映像と音声が同期したトーキーが登場した1930~50年代をご紹介していきます。
ハリウッド全盛期とヘイズコード
1930代、世界的な不況の中「トーキー」やカラー映画の時代が到来。
音楽や効果音が生かしたミュージカルやギャングものが映画の主流になり、劇場には刺激を求めた多くの観客が押し寄せます。
その一方で、1934年、映画やマンガが若年者や犯罪者に与える影響を憂慮する声が宗教保守派などから高まり、また、製作者の多くがユダヤ系であったことから迫害や政治介入を恐れたアメリカ映画製作配給業者協会(MPPDA)は、自主検閲制度を定めます。
それが悪名高き通称「ヘイズコード」(MPPDAの初代議長、ウィル・H・ヘイズの名を取った)で、1968年にMPAAが独自のレイティング(年齢制限)を設けるまで続き、映画作家の自由を縛ることになるんですね。
何となく、ハリウッド映画は日本よりも倫理的な縛り(映倫的なやつ)が緩いイメージがあるかもですが実はそうでもなく、むしろキリスト教圏ということもあって部分的には日本映画より縛りがキツイくらいなんですよね。
そしてこのヘイズコードが一番厳しかった時代に活躍した映画作家と言えば、サスペンスの神様アルフレッド・ヒッチコックだったりします。
ヘイズコードと戦いながら数々の名作を生み出したアルフレッド・ヒッチコックの半生を描いた伝記映画「ヒッチコック」
ディズニー映画
1937年、ご存知「ディズニー」の世界初長編アニメ映画「白雪姫」が公開され世界的に大ヒットします。
それまで、ディズニーはミッキーマウスを主人公にした短編映画 「蒸気船ウィリー」(1928)「ギャロッピン・ガウチョ(1928)」「プレーン・クレイジー」(1929)を公開しましたが、「白雪姫」はディズニー初のカラー映画であり、ロトスコープ(一度人が演じたフィルムをトレースする技法)や、背景やキャラクターをレイヤーで分けて撮影するマルチプレーン・カメラで遠近感のある映像を作り上げるなど、その後のアニメーションへと引き継がれていくいくつもの技術やテクノロジーが導入されました。
また、音楽と映像をリンクさせた現代に続くミュージカル的な技法にも当時の観客は大いに驚いたようです。
ネオレアリズモ
一方、イタリアでは1932年にベネツィア映画祭がスタート。
1935年公開、ジャン・ルノワールの「トニ」に影響を受けて、イタリアでネオレアリズモ運動が起こります。
イタリア・ネオレアリズモ運動を物凄くざっくり説明すると、貧困層や労働階級のリアルやヒューマニズムを描いた作品群って感じでしょうか。
日本ではジブリの高畑勲監督が強い影響を受けていたことで有名ですね。
イタリア・ネオレアリズモの影響を強く受けていた高畑勲監督
第二次世界大戦とハリウッド全盛期と衰退
1939年~1945年まで続いた第二次世界大戦の影響を受けて、フリッツ・ラングやジャン・ルノワールなど、ヨーロッパや世界中から多くの著名な映画作家がアメリカに集まり(亡命や招聘など)、
また、映画製作本数も年間400本を超え質量共にアメリカ映画界は世界の頂点を極めます。
1930~40年代は好景気も相まって、まさに「アメリカ映画の黄金時代」を迎えるんですね。
その一方で、第二次世界大戦後の冷戦初期の1948年頃~1950年代前半、アメリカにおける共産党員や共産党シンパと見られる人々を排除する動き、いわゆる「赤狩り」は、政府関係者やアメリカ陸軍関係者だけでなく、ハリウッドの芸能関係者や映画監督にも及び、チャップリンをはじめ優れたハリウッド関係者が亡命、または映画界を追放されてしまいます。
「赤狩り」を描いた映画は何本かありますが、最近の映画だと、赤狩りに遭いながら偽名を使って「ローマの休日」など多くの名作で脚本を手がけたダルトン・トランボの伝記映画「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」(2016)が詳しいと思いますねー。さらに同時期、テレビの普及がハリウッドに追い打ちをかけます。
観客動員数の減少に悩んだハリウッドは、テレビでは味わえない大規模・大画面・大予算の大作主義に向かうんですね。
しかし、そのせいで製作本数は減少、新人監督デビューのチャンスを奪うことになってしまいます。
また、製作・配給を一手に手がけていた(スタジオ・システム)ハリウッドのメジャー映画会社は、独占禁止法によって制作と興行との分離を強いられることになります。
赤狩りによって優れた映画人を失い、大作主義で新人育成の芽を潰し、独禁法で安定的な興行システムを失い、ハリウッドの黄金時代は終焉を迎えることとなってしまうんですねー。
映画先進国日本
一方、日本はというと戦後1951年にサンフランシスコ講和条約、翌年にGHQによる映画検閲が廃止されて時代劇が解禁、多くの映画が製作されるようになります。
そして1951年に黒澤明が『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞。
羅生門/黒澤明
溝口健二が1952年『西鶴一代女』、1953年『雨月物語』、1954年『山椒大夫』と、3年連続で受賞。
雨月物語/溝口健二
1954年は黒澤の『七人の侍』もヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞、カンヌ国際映画祭において衣笠貞之助の『地獄門』がグランプリを受賞するなど、日本映画が世界の映画祭を席巻します。
また、同じく1954年には「戦後の暗い社会を尽く破壊、無秩序に陥らせる和製キングコングを作りたかった」という本多猪四郎と円谷英二によって作られた怪獣映画「ゴジラ」が公開されるなど、まさに当時の日本は「映画先進国」だったんですねー。
というわけで、今回はここまで。
次回は、1960年代以降の映画についてご紹介していこうと思います。
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