ぷらすです。

ご存知、世界的アニメ監督の宮崎駿監督のアニメを1作づつ語っていくこのシリーズ。
ただ、TV版も入れると作品が多すぎるので、宮崎さんの劇場作品に限定して語ります。
その第11弾となる今回は、現状、宮崎駿監督最新作となる『風立ちぬ』ですよー!

風立ちぬ (2013)



宮崎駿の自伝であり遺言


「ルパン三世 カリオストロの城」から宮崎駿監督の映画作品を語ってきたこのシリーズも、いよいよ本作で(現状)ラストになりました。

本作は、実在の人物であり零戦の生みの親でもある堀越二郎をモデルに、その半生を“完全に創作”して描いた作品であり、ストーリーは堀辰雄の小説『風立ちぬ』からの着想も盛り込まれているんですね。

堀越二郎氏は1982年、78歳まで存命で、奥様の須磨子さんも結核になった事はなく天寿を全うされているそうです。
本作のヒロイン里見 菜穂子は完全に宮崎さんのオリジナルキャラで、そのモデルは堀辰雄の「風立ちぬ」の主人公「私」の婚約者・節子で、そのモデルは堀と昭和9年に婚約し、昭和10年に死去した矢野綾子という女性らしいです。(ちなみに菜穂子という名前は小説「菜穂子」から取っているらしい)

要は物語のベースは堀辰雄の「風立ちぬ」で、主人公は実在の人物堀越二郎をモデルにしているということですね。

宮崎さんが、なぜそんなややこしい事をしたのかと言えば、主人公が零戦を作っている事が重要だったからです。
非常に優れた飛行機ながら戦闘機ゆえに多くの命を奪った零戦をアニメーションに準え、その設計者である堀越二郎に自分を重ね合わせつつ、宮崎さんは本作でアニメーションの功罪とクリエイターの苦悩を物語に描いたんですね。

宮崎さんの中には「アニメーションはあくまで子供のためのもので、成長したら卒業するもの」という考えがありました。しかし大人になってもアニメから卒業しないどころか、アニメに耽溺する沢山の人々がいる現実に対して、宮崎さんはある種の責任を感じていたようです。(書いてて心が痛いw)

同時に、以前も書いたようにアニメーションは実写に劣るものではないという自負や自分の思いを表現したいという気持ちも当然あって、宮崎さん自身、そうした二つの矛盾した思いの中で揺れ動きながら作品を作り続けてきたわけです。

本作では、そんな宮崎さんの抱える思いをそのまま「美しい飛行機を作りたい」という堀越二郎に乗せて描いているわけで、つまり堀越二郎のモデルは宮崎さん自身なんですよね。
なので、本作はフィクションではあるけれど、本質的には宮崎駿の自伝であり遺言でもあるのだと思います。

だから、僕を含む一般の視聴者にとっては何だかピンと来ない部分も多い物語ですが、クリエイターの人たちには高い評価を得ているんですね。

『風立ちぬ』は「いい話」でも「昭和を懐かしむ映画」でもない


多くの人は本作(というか堀辰雄)を、「戦争という時代の流れに翻弄された天才と、その男が愛した女性との悲恋を描いたラブロマンス」「ALWAYS三丁目の夕日的な昭和を懐かしむ物語」みたいな作品だと思われているかもですが、この映画はそんな「いい話」ではありません。

この映画に描かれているテーマを一言で言うなら「クリエイターの抱える業」です。

『モノ創り』に魅せられた人間が受ける「祝福と呪い」こそが宮崎さんが描きたかった事だし、時代背景が関東大震災や太平洋戦争前後なのは、東日本大震災や何かと不穏な空気に支配された現在(いま)の世界を反映させているのです。
そんな中でも堀越二郎は「美しい飛行機」を作ることにしか興味がなくて、その思いは不治の病に伏せる愛妻の菜穂子よりも重要だし、それこそが「創作に取り憑かれた人間が抱える『業』」なんですね。

堀越二郎=ムスカ?


宮崎作品には大抵の場合、宮崎さん自身を反映させたキャラクターが二人登場します。
それは、宮崎さんがそうなりたかった姿と、自らのコンプレックスが反映している姿ですね。

「カリオストロ」で言えば、ルパンと伯爵。
「ナウシカ」ではアスベルと王蟲
「ラピュタ」ではパズーとムスカ
「もののけ姫」ではアシタカと乙事主(おっことぬし)
「千と千尋」ではハクとカオナシ
など。

つまり主人公やヒロインを助ける純粋なヒーロー側(前者)と、悪役やクリーチャー側(後者)に、それぞれ二人の宮崎駿が託されているんですね。

では、本作の主人公 次郎はといえば、明らかに後者(クリーチャー側)のキャラクターです。
それはつまり、これまで自分を善と悪、もしくは人間とクリーチャーにわけてキャラクターに反映させていた宮崎さんが、初めて直接的に自分をそのまま仮託したキャラクターが堀越二郎だったのです。
そういう意味では、ムスカが主人公の「ラピュタ」みたいな作品なんですよねw

生と死の交錯


そんな次郎が初めて愛する女性がヒロインの菜穂子。
自分の命を飛行機に捧げたクリエイター(人間としては死んでいるも同然な)次郎にとって、菜穂子は人間=生命の象徴です。

そんな二人は関東大震災の日に出会い、軽井沢で再会して恋に落ちます。
最初の出会いでは、風に飛ばされた次郎の帽子を奈緒子が受け止め、軽井沢では奈緒子の飛ばした紙飛行機を次郎がキャッチしますよね。

実は次郎が最初に惹かれたのは、奈緒子ではなく使用人のお絹の方。
しかし、軽井沢での出会いで次郎は初めて奈緒子に恋をするのです。

同時に、上記の紙飛行機のシーンは「生と死」が交錯する終わりの始まりでもあるのです。
では、本作の山場は何処かといえば、アニメ監督の宮地昌幸さんは「床に伏せる菜穂子の横で次郎が仕事をするシーンではないか」と語っていて、僕もそう思います。

「病人の横でタバコを吸うなんて!」と、アレな人たちがキーキー騒いでた例のシーンです。
宮地さんは、菜穂子をナウシカ、二郎を(口から放射能を吐く)巨神兵のメタファーになっているのでは? とも語っていて、個人的に完全同意とはいきませんが、生と死が交錯して入れ替わるシーンという意見はその通りだなーと思うんですよね。

関係ないですけど、フィクションに対して(現実の)常識だの歴史考証だのを盾にトンチキな批判する人は「お前、一生ドラマ観んな!」って思いますねー。(観もしないで騒ぐ奴は問題外)

閑話休題。

というわけで、この作品が宮崎駿の自伝であり、クリエイター論であり、遺書であるという理由が分かっていただけたのではないかと思います。
そして、そういう視点で観ると、一見分かりにくい本作がグッと分かりやすい物語になるんじゃないかなーなんて思うんですよね。

それまで様々な矛盾や葛藤を抱えながら作品を作り続けてきた宮崎駿という監督が、(少なくともこの当時は)最後に作ったのは自分自身の物語で、奇しくも高畑勲監督の遺作「かぐや姫の物語」と対になる作品でもあったという点も面白くて、一度観て「よく分からない」と思った人も、上記を踏まえてもう一度観てもらえたら嬉しいなーって思います。

というわけで、11回に渡って宮崎駿監督作品を1作づつ語ってみました。
もちろん僕の勝手な思い込みで書いている部分も多々あるので、これが正解というわけではないんですが、「まぁ、そういう観方もあるかもねー(このニワカが!)」くらいに思って頂けたら嬉しいですよー。

ではではー(´∀`)ノ


宮崎駿作品を語ってみる-10「崖の上のポニョ」(2008)

「かぐや姫の物語」(2013)感想


この記事を書いた人 青空ぷらす

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