ぷらすです。

ご存知、世界的アニメ監督の宮崎駿監督のアニメを1作づつ語っていくこのシリーズ。
ただ、TV版も入れると作品が多すぎるので、宮崎さんの劇場作品に限定して語ります。
その第9弾となる今回は、キムタクが声を当てたことでも話題になった『ハウルの動く城』ですよー!

ハウルの動く城(2004)




製作の経緯


本作は、イギリスの作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズのファンタジー小説『魔法使いハウルと火の悪魔』を原作にした、ジブリの宮崎駿監督 長編作品としては『魔女の宅急便』以来、15年振りとなる他者原作の作品です。

当初、監督には東映アニメーション所属(当時)の細田守、脚本に吉田玲子、作画監督に近藤勝也をはじめとする制作チームで企画が進んだものの、細田監督とジブリの衝突などでチームは解散。
結局、宮崎さんを監督に再スタートすることになったんですね。

ストーリーと登場キャラクター


ストーリー

まずはざっくりストーリーのおさらい。

帽子屋の少女ソフィーが兵隊にからまれていた所を、魔法使いのハウルに助けられるところから物語はスタートします。

この時、ハウルも彼の心臓を狙う"荒地の魔女"に追われているところで、ハウルと別れたソフィーはその夜、魔女の呪いで90歳の老婆に姿を変えられてしまうんですね。

帽子屋に居られなくなり街を出たソフィーは、荒地で不思議なカカシの"カブ"を助け、彼が連れてきたハウルの動く城に出会い、城の掃除婦(というか家政婦)として、城の暖炉に住む(ハウルと契約をしてこき使われている)火の悪魔カルシファー、ハウルの弟子マルクル、ハウルとともに同居を始めます。

やがて隣国との戦争が始まると、ハウルの昔の師匠で王に仕える魔法使いのマダム・サリマンがハウルに国への協力を求めてきますが、逃げ回るハウルに「協力するならば悪魔と手を切る方法を教え、協力しないならば魔力を奪う」と脅迫。荒地の魔女からも魔力を奪ってしまうのです。

その後も彼を狙い続けるサリマンから隠れるため、ハウルはそれまで住んでいた城からソフィーの帽子屋へ魔法で引越し、魔力を奪われて普通の老婆に戻ってしまった荒地の魔女も家族に加わることになります。

しかし町は空襲を受け、ハウルはソフィーを守るために戦地に向かい、ソフィーは彼が戦うのは町に自分達がいるからだと考え荒地の城に戻り、ハウルを助けに行こうとするんですね。

その時、ハウルの心臓をカルシファーが持っていたことに気づいた荒地の魔女は、カルシファーに手を触れて火達磨となり、ソフィーが思わず2人に水を掛けると、カルシファーの魔力に支えられていた城は途端に崩壊、ソフィーはその残骸と共に谷底へ落ちてしまうのです。

谷底でソフィーはドアの残骸の先が別の世界とつながっていることに気づき、その世界で子供時代のハウルを見つけます。
ハウルが流星を飲み込み、胸から火に包まれた心臓を取り出すのを見たソフィーは彼に「きっと行くから未来で待ってて」と叫びながら元の世界に帰るんですが、この時、いつの間にか彼女の姿は老婆から少女に戻っていました。

元の世界では、悪魔のような姿に変わり果てたハウルが、精気を失った顔で待っていました。
ハウルが自分をずっと待ってくれていたのだと気づいたソフィーが、荒地の魔女からハウルの心臓を受け取って彼の胸に戻すと、流星に戻ったカルシファーは自由になって飛び去り、ハウルも精気を取り戻します。

同時にカルシファーの魔力に支えられていた城の残骸が崩れ、乗っていたソフィー達が谷へ落ちそうになるのを突然現れたカカシのカブが身を投げ出して防ぎます。ソフィーが感謝のキスをすると、カブは人間の姿に。

彼の正体は呪いを掛けられていた隣国の王子でした。彼は国に戻って戦争を終らせると言います。
その様子を魔法で見ていたサリマンも「このバカげた戦争を終らせましょう」とつぶやき、自由になったカルシファーも、みんなといたいと言って帰ってきました。

新しくなった城でソフィーとハウルはキスをします。
そしてハウルの動く城は、皆を乗せて青空を飛んでいくのでした。


実は戦争絡みのシーンは原作にはない映画オリジナルの演出です。
この当時、2001年の「アメリカ同時多発テロ事件」を受けて「テロ対策特別措置法」施行・公布され、海上自衛隊の艦船3隻がインド洋に向けて出航。
2003年7月には通称「イラク復興支援特別措置法廃止法案」が成立し、人道復興支援活動・安全確保支援活動を行うこと目的に自衛隊がイラクに派遣されるようになりました。

こうした、日本を巻き込む時代の大きな動きを、宮崎さんは物語に反映させたんですね。

キャラクター

そして登場キャラクターはそれぞれが、現代を生きる日本の人々を象徴するメタファーになっています。

ハウル
ナルシストでプレイボーイだけど誰にも心は開いていない。
ちょっとしたことで激しく落ち込んでしまう姿は、まさに臆病で繊細な日本の若者のメタファーです。
彼がプレイボーイなのは心臓(ハート)を失った寂しさを埋めるためで、愛する人(ソフィー)との出会いで、徐々に彼本来の優しさや人間性を取り戻していくのです。

ソフィー
自分の容姿に自信がなく、妹で華やかな美人のレティーに対して劣等感を持っています。
彼女は荒地の魔女の呪いを受けて老婆になりますが、実は容姿コンプレックスが自己暗示となって彼女の姿を老婆に変えているんですね。
なので、眠っている時などは無意識に元の姿に戻るし、後半、老婆になったり少女になったりするのも、彼女自身のメンタルが関係しているようです。

また、本人に自覚はないけどソフィーは一つだけ「物に命を吹き込む」魔法が使えます。
荒地の魔女に呪いをかけられたのも、無意識に帽子に魔法をかけて魔女のハウル追跡を邪魔をした報復だし、契約によって繋がっていたハウルとルシファーを引き剥がしても二人が生きていたのは、彼女の持つ魔法のおかげなんですね。


マダム・サリマン
サリマンは、ハウルにとっていわば母親的な存在です。
しかし、ハウルを手放そうとせず、離れようとする彼を支配しようとする姿は決して良い母親とは言えません。子離れできず、子供を支配し自分の思い通りの道に進ませようとする、いわゆる「毒親」のメタファーなのではないかと思います。

荒地の魔女
荒地の魔女は「老人」のメタファーです。
若さに執着し、それを手に入れるために悪魔と契約しハウルの心臓を手に入れようとしますよね。
そんな彼女の行動原理は、自分の老いを認める事の恐怖なんですよね。
案外、宮崎さん自身の心情(と反省)が彼女に乗っかっているのかもしれません。


サリマンも荒地の魔女も決して良い大人ではなく、ハウルやソフィーはそんな勝手な大人たちの思惑に振り回され、理由も分からずに戦争に巻き込まれます。
一方でハウルは「責任」から逃げ回り、ソフィーは劣等感から人との関わりを拒絶している。
結局、大人も子供もみんな勝手で孤独なんですね。

もちろん原作通りの部分もあるんでしょうけど、宮崎さんはこの作品で現実の世界に起こっている問題や、日本での「家族や世代間の分断」という、自身が感じた危機感、不安、怒りを本作の大きなテーマに据えたんですよね。

その後、ソフィーとハウルはルシファーの魔力で一度は壊れた城を再建し、マルクルやルシファー、荒地の魔女と共に「家族」として暮らします。つまり本作は一度は失った「家族」というコミュニティーの再構築=日本人が失った精神性の回復の物語なのです。

作風の変化


ただ正直、本作のストーリーはあまりに言葉足らずで、正直、一度観ただけではストーリーの流れやキャラクターの関係性を理解するのはかなり難しいとも思いました。
これは細田監督からの監督交代で製作時間が足りなかった事も関係してるのかもですが、僕はそもそも宮崎さんがストーリーの筋道を立てて語ることに興味がない事の方が大きいような気がします。

以前も書いたかもですが、そもそも宮崎駿という人は物語に人物(配役)をはめ込んでいくストーリーテラータイプではなく、世界観とキャラクターのディテールを徹底的に作りこみ、キャラの動きや感情の動きを表現することで物語を紡ぐタイプの映像作家です。

しかし「もののけ姫」以降の宮崎さんは、作品の中にテーマ性を強く持たせるようになっていきます。
それでも「千と千尋の神隠し」までは、まだエンターテイメント作品としてのバランスがギリギリ取れていたと思うんですが、本作でいよいよそのバランスが崩れてしまったように感じたんですよね。

それまでは若さと勢いで強引にエンターテイメントに落とし込めていた物語が、老境に差し掛かり、言い合いこと・やりたい事が溢れて、いよいよエンターテイメントの枠組みの中に収まらなくなってしまったというか。

鈴木プロデューサーによれば、宮崎さんの作品は全て“自伝”なのだそうです。
自身の体験や経験、思想などを作品の中に入れ込まないと作品を作れないし、それをしてきたから宮崎駿のアニメーションはリアルで面白いのだと。

同時に宮崎さんは、誰よりもエンターテイメントを作ることに自覚的な作家でもあり、常に“自伝”とエンターテイメントが宮崎さんの中でせめぎ合っているのではないかと思ったりするわけです。

そして、「千と千尋の神隠し」で自身の中にあるエンターテイメントの引き出しを使い切り、年齢的にも「最後の作品」を意識し始めた宮崎さんは、この作品から(おそらく)「意識的」に作品に自身の人生を強く投影していく“自伝”へと舵を切ったのではないかと僕は思うんですよね。

この記事を書いた人 青空ぷらす

今日見た映画の感想(映画感想ブログ)
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