夏休みの宿題に読書感想文なんて、すでに死語で、一部の人にとって懐かしいことなのかな?と。小説の読み方ってタイトルを付けたけれど、正確には「自分はこんなふうに読んでいますよ」になる。あくまでも、わたしだけに当てはまる文章の捉え方だと理解していだければ。例として、青空文庫から太宰治「斜陽」を選んでみた。



まずはさらりと最後まで読みます

何よりも大切にしているのは没頭することだ。時間を忘れて、どこまでその小説がつくりあげた世界に入り込めるか。前のページを読み返すことは、ほとんどない。ひたすら次のページをめくる。夢中というのが大切なんだと思っている。

ただ、人間というやつは興味の対象が移ろいやすい。途中で雑念がどこかから飛んでくる。厄介な雑音だ。そういうときは自分でCMを入れる。ちょっとコーヒーが飲みたいので10分ぐらい休憩とか。まちがっても、コーヒーを飲みながら本は読まない。なぜなら、集中の糸が切れるまではいかなくても、糸の本数が減るような気がするんだよ。

分からない言葉が出てきても、そのまま流れに任せて読み飛ばす。1冊の本に書いてある言葉をすべて理解しているなんて稀だから、気にしない。当然、本の内容にもよるけれど。調べる暇があれば小説の先へと進む。読むスピードを落としたくないんだよね。遅くなることがイヤだって気持ちが大きい。

もちろん、没頭できない本はある。割合でいえば、時間を忘れて読む本の方が圧倒的に少ない。そういう本はどうするのか? 「まずはさらりと最後まで読みます」の段階で、さようならだ。でも、最後までは読むように心がけている。どんなにつまらない小説でも、つまらないと感じた理由を探すことは有益と思っているからだ。もし、最後まで読み通せない小説に出会ったら、そんな本を手に取った自分を責めるようにしている。

気になった箇所を読み返します

「あぁ、おもしろかった」では終わらない。終わらせない。おもしろかったにもいろいろな種類がある。おもしろかったを感動という言葉に置き換えてもいいだろう。泣けた、笑った、震えた、など、そんな感情の動きが感動だ。なぜ、そのように思ったのか? それを見つけるために気になった箇所を読み返してみる。

かといって、すぐには読み返さない。しばらくの日にちを空ける。良質の小説は読後感として、これまで自分が思っていた世界とは違うものを見せてくれる。一種のショックだ。ショックを咀嚼するのには少なからずの時間がかかる。ある程度、消化するまでは冷静な分析ができないと思っている。そう、少なからずの時間とは熱に帯びた自分を冷やすためにあるんじゃないかと。

手のひらに小説をのせて観察します

読み返す速さはとんでもなくゆっくりだ。文字のない空白を見つめているときもある。あちらこちらのページを気まぐれに飛ぶ。リズム感、視点の動き方、言葉の選び方、句読点の位置、比喩、語尾、など、あらゆる角度から眺めてみる。手のひらに小説をのせて虫眼鏡で見るような感じで。例は「斜陽」太宰治の冒頭部にした。他の小説でもいいのだけれど、あくまでもひとつの例として。

 朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
 と幽かな叫び声をお挙げになった。
「髪の毛?」
 スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」
 お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる。弟の直治がいつか、お酒を飲みながら、姉の私に向ってこう言った事がある。
 
「斜陽」太宰治  青空文庫より

「斜陽」の出だしは絶品だと思う。引用した部分のあとに、この小説の本題である「斜陽」についての記述がさりげなく挿入していることもスゴイのだけれど、それよりも一切の無駄がないんだよね。「自分はこんなふうに読んでいますよ」の例なので、これから先は読み直したときの流れにそって書いてみる。

斜陽 他1篇 (岩波文庫)
太宰 治
岩波書店
1988-05-16



「斜陽」を読んで1週間ぐらい経った。頭に残るのは出だしのお母さまだ。お母さまがスープをすくっている映像が離れない。なので冒頭をもう一度、読み返してみた。以下、バラバラの思考。

いきなり1行目で読点(、)があって、そこで改行。これは2行目の「あ」を強調するため。これは3行目でも明らかだよね。上手いな……。普通なら、もっと、よけいな文章を入れてしまいがちなのにものすごく簡潔。だから、お母さまの存在が浮きだってくる。さすがの引き算だわ。風景描写らしきものは『満開の山桜』ぐらい。かといって、『スウプ』や『お勝手の窓』、『ヒラリ』、『婦人雑誌』で上品な雰囲気を伝えているし。『姉の私に』で冒頭の視点が誰にあるのかも書ききっていて、その文章に繋がるところもわざとらしさが皆無だ。疑問があるとすれば、最初は『ひらり』だったのに、次に出てくるときは『ヒラリ』とカタカナ……。

あ、ムリかも。

気になった小説は何度も読み返します

たぶん、バラバラの思考をすべて並べたら、この数倍はあるだろう。例に挙げた「斜陽」を始めて読んだのは10代の中頃。中学生の自分が感じたものと、それ以降の自分が感じたものは異なる。経験や知識が増えれば、相対する文章の捕まえ方も違って当然だ。なので、気になった小説は何度も読み返す。気になった要因の底には自分というものがあるわけで、その底に沈殿したものをすくい上げるようにして食べる。

そう、美味しいものは何度でも食べる。

「自分はこんなふうに読んでいますよ」を文章にすれば、もしかすると新書1冊に収まらない量になるかもしれない。数千文字で語るのはムリな気がする。小説を読むことは頭脳をつかう遊びだと思っている。ただ、残念ながら、自分が持ち合わさている知覚は、あまりにも貧弱だ。知識もね。読解力もだ。そういう認識というか自覚がある。だから、気になった小説を何度も読む。読み返す。何度も食べる。

最初に貼ったのはデヴィッド・リンチの「I'm Waiting Here」。本を読む行為は、本を読んでいる最中の自分は、この動画みたいに果てしない道を進んでいく感じと似ている。ゴールが見えないんだよ。どこまでも続いていてキリがない。だからこそ、おもしろいんだろうけどね、小説を読むことそのものが。





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yosh.ash

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