自分のおこづかいで初めて買った本を、あなたは覚えているだろうか?
私ははっきりと覚えている。小学4年生の時にわずかなお金を大切にお財布に入れ、近くの書店へ行った。さな頃から本を読むのが好きだったので、その書店にもよく入り浸り、立ち読みをしていたので目指す本がどこにあるのかはすぐにわかった。

初めて自分で買った本は……

レジでカバーをかけてもらい、お金を払って、私は大急ぎで家に帰った。一刻も早くこの本がどんな内容なのかを知りたかったからだ。そのときに買ったのは、太宰治の『人間失格』だ。今考えるとひどくマセた子どもだが、そんなことは大人にならないとわからない。私にとっては単に興味をそそられる本の一冊だったのだ。






家に帰るととバッグを放り投げ、椅子に座って夢中で読み始めた。夕食の時間ももったいないような気がして大急ぎで食事をかきこんで、部屋へ戻って続きを読み漁った。わからない言葉や字に出くわすと辞書をひいて意味を確認しながら読んだ。時折妹が部屋に入ってきてちょろちょろとしていたが、それすら気にならずに必死で読んだ。そして家族が寝静まった夜中に読了した。その感想は「人間は絶望で死ねるんだな」だった。

人間は絶望で死ねる

ネタバレになるので多くは書かないが、お金持ちの気の弱いおぼっちゃんがいつも劣等感を抱き、自分よりも恵まれない立場にある友人が次々と驚くようなことをやらかし、それを見るたびに強烈に影響を受けつつもさらに劣等感を深くしていく。

自殺未遂もやらかし、最後は廃人のようになっても彼は彼でしかなく、その頃にはもう己を殺すという選択肢もないまま、無感情になって生き続けていくのだ。だが、私は廃人のようになって無感情に生きている彼こそが「死んでいるのだ」と感じた。だから「人間は絶望で死ねるんだな」という感想を持ったのだろうと、今は思う。

もちろん成長していく段階で何度か読み返し、彼の道化を見抜く少年は太宰自身のもう一つの姿であろう、とか、心中を図って自分だけが生き残ったことを悔やむのなら、なぜ後追いをしなかったのだろうか、などと色々なことを感じた。しかし、大人になってもやはり「人間は絶望で死ねるんだな」という感想を超えるような説得力のあることが思い浮かばないままでいる。

『人間失格』を読む場所は……

さて、書を携えて街へ出て、こんな陰気な本をどこで読んだらいいのだろうかと考えてみたが、やはりこの本だけは外へ出ず、自分自身の部屋へ引きこもり、徹底的に外部から遮断された状態で読むのがふさわしいと思う。タイトルの趣旨には反してしまうが、他にベストな場所が思い浮かばない。それから読むのは6月13日、太宰の命日である「桜桃忌」がいい。

太宰の作品は他にもいくらでも素晴らしいものがあるし、あえて『人間失格』を選ぶというのはまるで「中二病」のようで気恥ずかしい。だが、私が小学4年生にしてため息をつきながら「人間は絶望で死ねるんだな」と思った感覚を信じてやりたいのだ。

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今は青空文庫でも読むことができるし、もちろん文庫本で読むこともできるが、この本は文庫本で読んでほしいと個人的には思う。私がそうだったように、初めて太宰の小説を夢中で読み進めた時の息のつまる感じ、ページを繰る行為、そんなものを味わって貰いたいからだ。

こう書いていいのかわからないが、別に太宰の本でなくともいい。どんな小説でもいい。ただ、幼い自分が選び出し、読み進めて行き、読了した時のあの感覚。それを誰かと口には出さずとも共有したいだけなのかもしれない。

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madokajee

旅と音楽と本が好き。別名義でWebライターとして活動中。
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