1992年、艾敬(アイ・ジン、Ai Jing)は「我的1997(私の1997)」でデビュー。中国からのギターを抱えた女性シンガーソングライターとして日本でもテレビ番組で紹介された。たしか、ユースケ・サンタマリアが司会の「アジアNビート」だったと思う。1994年には来日公演も果たした。



艾敬(アイ・ジン)の「我的1997(私の1997)」

艾敬(アイ・ジン)は決して歌が上手い歌手ではない。デビュー前に始めた、ぎこちないギターも、何のひねりもないメロディも、彼女の声やルックスにとても合っていた。ミュージックビデオでは京劇の役者に扮した人たちが出演している。チャイニーズポップス。この言葉が一番、しっくりとくる。フォークソングっぽいチャイニーズポップスだ。

艾敬は素朴な存在として受け入れられた。派手な女子ばかりのクラスに田舎から転校してきた純朴な少女。そんな印象が残る。とても新鮮だった。歌詞は香港への憧れと期待に満ちている。1992年。まだ、香港はイギリスの統治下にあり、中華人民共和国側からみると近くて遠い異国文化の都会だった。「私の1997」は「早く1997年になって向こうに行きたい!行きたい!行きたい!」という20代前半の夢見る乙女が歌う曲だ。

「私の1997」と現実の1997年

「私の1997」では、ヤオハン(日本の企業が出資した香港最大のデパート)や香港コロシアム(日本の武道館みたいなもの……誰もが憧れるライブ会場)を最後に繰り返し歌っている。「ヤオハンってどんなところで、どんな服が売っているの?」、「香港コロシアムのステージに立ちたいわ!」、「1997年、早く来てよ!」と。

しかし、現実は厳しい。

ヤオハンは返還後、すぐに倒産した。中華圏では人気の高いブランドなので、別会社が名前を使っているようだ。他にもある。混沌とした東南アジアの象徴でもあったカオスな建物群、九龍城は1994年に取り壊された。艾敬(アイ・ジン)自身も1990年代半ば以降、アメリカでの活動が増えた。

決して、現実は止まらない。

「我的1997和2007(My 1997 and 2007)」

「私の1997と私の2007」。艾敬(アイ・ジン)は自ら、デビュー曲のアンサーソングを作った。ミュージックビデオが制作されている。そこに映されているのは彼女が自由に香港を歩きまわっている様子だ。少々垢ぬけてはいるものの、彼女の素朴さは映像に薄っすらと残っている。

「私の1997」を発表してから15年。香港返還から10年の年月が流れた。何が変わって、何が変わってないか、それは実際に香港で生活している人にしか実感できないことなのだろう。日本に住む者には軽々しく言葉にできる話ではない。20代前半でデビューした彼女も2007年には40歳手前。1stアルバムが日本盤まで発売され、1994年にはアジア部門でトップの売上げだったなんて嘘のように思える。

常に時間は動いていく。

純朴な少女の憧れは……

純朴な少女の憧れは幻だったのかもしれない。「我的1997(私の1997)」のミュージックビデオに映る彼女の笑顔は貴重だ。その後の現実がどうであれ、キラキラした憧れからくる笑みはとても眩しい。モノがあふれる都会に暮らす人々がどこかに落としてきた感情が笑みの奥にある。大切な感情だと思う。こんな問いかけをされているような気がするんだよね。

あなたはそんな気持ちを持っている?
忘れていない?

我的1997 (復黑版) ~ 艾敬
艾敬(アイ・ジン)
New Century Workshop (HK)
2013-12-20


この記事を書いた人

yosh.ash

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